2023年とGalileo Galileiと私

ずっと好きな音楽について語ってみたかった。

 

あまりに長い間この気持ちを温めすぎしまって、これ以上自分の内側に溜め込んでおくのがつらくなってきたので、書くことを試みている。

自分が好きな音楽があまりにかっこいいものだから、同じくらいかっこいい言葉で、ぐっとくる表現で、読む人を楽しませる文章を書かなくてはと思いこみすぎていたせいかもしれない。

今はただ、好きという気持ちを何も考えずに吐き出したい。あとのことはそれから考えよう。大好きな音楽を大好きと語ることにそんなに肩に力を入れる必要は、たぶんない。

 

そこでまず、Galileo Galileiである。

 

どうしたら私のこの「好き」を伝えられるだろう。

 

私にとって2022-23年は特別な年だった。

2022/10/11にGalileo Galile再始動のアナウンス

2023/01/28にYoutubeで「僕らのBUMP OF CHICKEN」のアップ

2023/03/28にYoutubeで「四匹のくじら」のアップ

2023年夏の「Bee and The Whales」ツアー

2023年冬の「冬の収穫祭」ツアー

 

「冬の収穫祭ツアー」の最終日@豊洲PITに参戦した私は、ライブ冒頭のBlue River Side Aloneが鳴り響いた瞬間、むせび泣いた。やっと「あえたね」って。

 

新生Galileoといいつつ、BBHFやwarbearの延長と思える曲作りもたくさん見受けられる。結局尾崎雄貴&和樹というコアに近づいたり離れたりしているミュージシャンたちとの集合体を、私が愛したGalileo と呼んでいいのか、正直戸惑った。今でも戸惑っている。でも、2023年リリースのアルバム「Bee and The Whales」はとても好きだ。

 

というわけで、私がGalileoに恋に落ちた瞬間について書いてみる。

 

あれは2020年。パンデミックの始まりの年。

ステイホームのおうち時間の中で、私はGalileoに出会った。正確に言えば再会した。「青い栞」をずっと以前にYouTubeのサジェストで聴いて以来、私の中の「ちょっといいね」箱の中に入れっぱなしだったから。

 

問題は「Portal」だ。どうして2020年に「Portal」を聴くことになったのか、詳しい状況は覚えていない。でも、「Portal」は私の頭と心を激しく撃ち抜いた。これが(当時)10年近く前の音楽だとはとても思えなかった。彼らの年齢を知るにつけ、なんと早熟な、と震えた。そしてなんと独特な。すぐにバンドスコアを買って熟読した。

 

「Imaginary friends」については、もうたくさんの人が語ってくれているので、今は語らない。そのうち語るけど。

 

今どうしてもひとつ語るとすれば「星を落とす」。このアルバムに共通する夢見るようなエレクトリックサウンドの上に乗る、暴力的でいてあまりにも美しい歌詞。

「さあ 星をひとつ盗んで この街に落っことして 映画みたいに燃やして 最初から始めよう」

 

星を「つかむ」ではなく「盗む」ところがいい。

 

Galileo Galilei 『星を落とす -Live at 赤坂BLITZ-』 (youtube.com)

 

「素晴らしき音楽」と「涙の落ちる音」の対比。世界に満ちる音楽とあまりにもかすな涙の音。両者を等しい重さで聞き取る語り手の耳。

 

「つかむ」ではなく「盗む」ところがいい。暴力や犯罪や老いや死についての魅力的な表現は、間違いなく尾崎雄貴の詩人としてのすぐれた資質だ。そんな歌をいくつも思い浮かべられる。

 

ウエンズデイ、くそったれども、死んでくれ、君の季節、ボニーとクライド、Freud、バナナフィッシュの浜辺と黒い虹...

 

たくさん語りたいのだけど、今日は「くそったれども」について少し語っておしまいにする。だって明日も私はたぶん生きているから。まだ自分の好きな音楽について語れる未来があるのは、よろこばしいことだ。たぶん。

 

「くそったれども」は2011年のリリース。いつ作られた曲かはわからないけど、尾崎雄貴が20歳そこそこのときの作品か。「19年楽しかったです」とあるから、わりとそのときの本当の気分を反映しているのかもしれない。

 

Galileo Galilei 『くそったれども - Live at Namba Hatch, April 14, 2012』 (youtube.com)

 

尾崎の歌詞は物語性が強いから、歌詞の内容を尾崎本人の感慨と結びつけるのはあまりにナイーブな受け取り方かもしれない。かといって、自分の中に全くない発想が歌詞として表出するとも思われない。まあ、そんな態度で歌詞を見ていきたい。

 

というか、ここまで書いてきてわかった。私は音楽より歌詞に強いこだわりがあるのだろう。いつかもう少し音楽についてもきちんと書けたらいいなと思う。

 

話は戻って。

 

私はこの歌を初めて聴いたとき、絶望の歌と受け取っていいのか、希望の歌と受け取っていいのか、しばし戸惑ったのを覚えている。

 

まず感じたのは悪意だ。

 

「くそったれくだらない 地球という星からおさらばできるのが 腹の底から うれしくてなりません」

 

そのあとに続く、子どもたちの声(と思しき)「イェーイ!」という歓声(これはアルバム音源にしか入ってない)。「腹の底から」って。そこまで言う必要ある?自死を思わせる「秒読み10秒でここから消えるから」というフレーズの繰り返し。それを「うれしくてならない」と述べる語り手。ひどく露悪的だ。

 

それでいて、「最初で最後の今日という日を 無駄にしないようにちゃんと生きよう」と言ってみたりする。

 

私は混乱した。後半部分を読めば、この歌は19歳の自分の象徴的な死と、20歳の自分の新たな誕生を寿いでいるとも解釈できる。

むしろそう捉えたい誘惑にかられる。そのほうが聴く者の胸をざわつかせないから。

 

ここからはただの私の感想になるのだけど。

 

この歌の中には「地球という星からおさらばできるのがうれしくてならない」気持ちも「今日という日を無駄にしないようにちゃんと生きよう」という気持ちも、同じくらいリアルに存在しているのだと思う。

そして、いくらかの人々はこの2つの感情を同時に抱えて生きていたりするのではないか。ちなみに私はそういう人間だ。

 

2つの感情のうち、私は「うれしくてならない」方にどうしようもなく強く心惹かれてしまう。「無駄にしないようにちゃんと生きよう」は、リスナーに対するエクスキューズにすら聞こえる。これは別に不穏な歌じゃないですよ、大丈夫安心して、というポーズ。

 

破壊も死への欲望も、創作物の中にある限り、うすっぺらい希望なんかよりよほど切実で美しい。私はそう思う。

 

それはそうと、尾崎さんってめっちゃ歌が上手くなりましたよね(2023年現在)。

2010年代前半のライブ映像の不安定な歌唱も味があって好きだけど、今の歌い方によって、楽曲のよさと尾崎さんの魅力的な声質をより新鮮に聞き取れて幸せだ。

 

今晩はこれくらいで。

 

さよなら、今日という日。