アルペジオは単位か?あるいはフリッパーズ・ギターという悪夢

アルペジオ」の冒頭のギターのアルペジオの3アルペジオ目くらいでもう気づいた。

 

これは絶対、と。

 

小沢健二が歌い出す前にはもう気づいていた。

 

これは絶対に、と。

 

Arpeggio (Through The Wondrous Tunnel) (youtube.com)

 

これは絶対に私が好きになる曲で、絶対に小沢健二だと。

街中で偶然耳にして、その場で聞き取れた歌詞をスマホに打ち込んだらすぐに楽曲の情報が出てきた。

 

インターネット社会に祝福あれ。

 

そうしてまんまと何年もこの曲を好きでいるのだけど、ときどきとても不安になる。

あまりに歌詞の内容がハイコンテクストすぎて、私の感じている「よさ」が他の人の感じている人の「よさ」と同じなのか自信が持てないのだ。

 

別の言い方をすれば、だれかに「とってもいい曲だから聞いてみて」と自信を持って勧められない。

 

検索すればたくさんの周辺情報を知ることができる。

 

この曲は漫画家・岡崎京子原作の映画「リバーズ・エッジ」の主題歌として作られたこと。

小沢健二岡崎京子が長い友人関係にあること。

岡崎京子が事故で重い後遺症を負い、漫画を書けなくなったこと。

歌の中に出てくる地名は、小沢健二の出身である東京大学駒場キャンパス周辺のものが多いこと。

 

私はそれなりにこのコンテクストの中にいる人間だ。

 

ど真ん中世代ではなかったけれど、岡崎京子サブカルクラスタの自分が避けて通る余地のないほど大きな存在だった。もちろん「リバーズ・エッジ」も読んだ。岡崎京子の事故のエピソードもずっと以前から知っていた。

 

駒場の図書館なんてどれほど入り浸ったことか。キャンパスの裏門(駒裏)から山手通りに出れば、代々木がすぐそこだ。時間を持て余していたから、下北沢までなんていつも歩いていた。井の頭線の2駅は近い。

 

そういうあれこれを自分が体験しているからこそ、楽曲のよさが余計に沁みるのだろうか、と傲慢にも考えてしまうのだ。

 

楽曲のコンテクストを全く知らない人も気づくのだろうか?

やっぱり3アルペジオ目くらいでこれは素晴らしい曲だ、と。

 

逆に不安にもなる。

 

私は駒場から原宿までの道のりを知らない。歩いて行く用事がなかったから。

下北沢の珉亭というお店も知らなかった。

日比谷公園に行ったことはあるけど、どれが歌詞の中に出てくる「噴水」なのか見当がつかない。

 

これら細部を知らない私は、楽曲の真のよさにたどりつけていないのではないか。

 

知っていることの傲慢さと裏腹の、知らないことへの不安。

 

誰か、この曲の周辺情報をまったく知らないけど「すごくいい歌だ」と思った人がいたら手を挙げてくれませんか?この曲のよさが普遍なのか特殊なのか知りたいんです。

 

…落ち着こう、私。

 

私がいいと思えばそれはいい曲だ。

そして、極端なディテールへのこだわりとてらいのない極端な普遍(本当の心は本当の心へと届く!!)が一曲の中に存在していることが、この楽曲のたまらない魅力でもあるのだ。

 

 

どうでもいいけれど、私にとって小沢健二、というかフリッパーズ・ギターとの出会いは悪夢とかトラウマの類いだった。

12歳のころ、3つ年上の知らない人と六畳一間で暮らさざるをえなかった時期がある。どういう状況か想像しづらいかもしれないが、まあそんなことがあったのだ。

 

そしてそのお姉さんが来る日も来る日もフリッパーズ・ギターの「Colour me pop」をヘビロテしていた。私には「やめてもらえませんか」と言う権利はなかった。「three cheers for our side」でもなく「CAMERA TALK」でもなくあえての「Colour me pop」。おかげでSlideという曲に出会えたのは不幸中の幸いか。

 

最初に見たものをお母さんと思いこむ、というあれが本当なら、私のお母さんの半分は小沢健二でできている。そしてもう半分は小山田圭吾でできている。

 

機会があれば、そんな話の続きをしてみたい。

 

しかしこうして好きな音楽についてつらつらと書きつけるのは、生前の遺品整理みたいな趣があるな。つい自分史を語っちゃう、みたいな。

 

幾千万も灯る都市の明かりのひとつを消して、今日も眠ろう。

 

ハッピーバースデイ・ディア・バナナフィッシュ

 

前世の記憶が蘇ってくるわけです。この歌を聴いていると。

曲もいいけど歌詞がすごすぎるので、今日は歌詞も貼っておく。

 

Galileo Galilei バナナフィッシュの浜辺と黒い虹 with Aimer 歌詞 - 歌ネット (uta-net.com)

 

Galileo Galilei 『BaTW』Tourより「バナナフィッシュの浜辺と黒い虹」(2023.06.24 at Zepp Haneda) (youtube.com)

 

何がすごいって、言葉の高純度な結晶化作用がすごい。

この歌詞を読んでいると、「私は確かにこの経験をした」と信じそうになってしまうのだ。

 

試みに、私の前世を思い出してみよう。

 

あれは高2の夏の午前3時のこと。私はぎしぎしと嫌な音を立てるママチャリに乗って、目的もなく海までの坂道を下って行ったんだった。

ずっと前におばあちゃんがおみやげにくれた、しけたグッピーラムネを舌の上で転がしながら。

 

これはちょっといけないオクスリなんだ、なんて妄想をしながら。

 

ここは稚内。人口4万人の北海道最北端の街。都会の子と同じ娯楽は手に入らない。どんなに手を伸ばしても、それらはスマホの画面の向こう側にしかない。

 

私の手はきらきらしたものなんて何にもつかめないから、きらきらを手に入れたり手放したりしてる子たちが出てくる漫画を手に入れたり手放したりする。街のいちばん大きな古本屋で。

 

「本当の私“なんか”は何にも持ってない“ですから”」って、丁寧語でちょっとだけ自分を卑下する。そんな自分が嫌い。

 

私はこの街ではちょっとだけ感度の高い子。趣味の合う友だちだっているし、たまにはヴィレヴァンで買ったおしゃれな雑貨や、好きなサブカルバンドをLINEグループで自慢したりなんかする。

 

でも、何かが埋まらないんだよ。どうしても。だから私は舌の上で「アレ」を転がしながら海を目指す。

 

…という記憶。

 

一方、今生での私は、首都圏の私鉄沿線に暮らす、わりと勉強熱心な高校生だった。だから「都会の子」とまではいえないまでも「田舎の子」ではなかったはず。海に面していない地域に住んでいたから、自転車で浜辺には行けなかった。

 

初めてヴィレヴァンに行ったのは大学生になってからだった。家のわりとすぐそばにあったのに、高校生のころは存在に気づかなかったのだ。ライブに初めて行ったのは社会人になってから。

 

だから、あれは前世の記憶なのだ。ところどころは曖昧だけど、きちんと思い出せるのだから。

 

…待てよ。

 

稚内ヴィレヴァンはあるのか?

 

ぽちぽちとスマホで検索。どうやらないっぽい。ヴィレヴァンは北海道では札幌を中心に展開しているようだ。考えてみれば、人口4万人の街では経営が成り立たないかもしれない。さらに調べた。どうやら稚内には美容の専門学校はないらしい。

 

じゃあこれは前世の記憶ではないのか?尾崎雄貴が言葉で作り上げた世界があまりに鮮やかすぎて、そして私が尾崎の来歴(稚内出身であることなど)を知っているから、まるで本当のできごとであるかのように思い込んでしまったのか。私は稚内で確かにこの経験をしたことがある、と。

 

でもそれは大間違いの思い込みだったらしい。

 

…という下手な小芝居を打ちたくなるくらい、この歌詞の出来は完璧だと思う。

 

いちばん好きなのは、語り手が「あーああいつは 美容師すぐに辞めるでしょ ここに戻ってきて潮でも舐めてろ」と毒づくところだ。こういう唐突な暴力性の発露があるから、私は尾崎の歌詞を好きでいることがやめられない。

 

そして、2番の「私たちに愛される~」からのAメロの歌詞も秀逸だ。持たざる子の鬱屈をこんなにシニカルに端的にユーモラスに表現した言葉を私は知らない。差別ではなく事実として、地方の小規模の都市に住まう人が文化的なイベントに触れる機会は少ない。感性のきわめて高い若者にとって、この状況が絶望的といっていいほどのフラストレーションであることは容易に想像がつく。

 

こうして前世の記憶という思い込みから解き放たれた私は、この歌の歌詞が尾崎の生の体験の全き反映でないことを理解した。一方で、「田舎の子」の鬱屈の表現は「田舎の子」として育った尾崎の実感におそらく深く根差している。歌詞は作詞者の体験そのものでないだろうけれど、まったく実感のない詞を書くこともまた難しいだろう。その虚構と現実のあわいを、リスナーとしての私は楽しませてもらっている。

 

つまりはだ。私のものでない人生を、たった一曲の歌を通じて味合わせてくれてありがとう尾崎さん、という話。前世関係なかったな。

 

 

話は全く変わるのだけど、御年二けたに満たない私の子が、私のパートナーの誕生日にこんなバースデーカードを書いた。

 

「ふつうに好きだよ

(バナナのイラスト)(魚のイラスト)

4587年5月21日」

 

ガリレオを全く知らない私のパートナーの気持ちやいかに。さぞかし戸惑ったことだろう。4587年って。これが西暦の年号だとして、人類は今のように存在しているだろうか、きわめて怪しい。

 

捉え方によってはひどくロマンチックなメッセージという気もするけれど。

 

ハッピーバースデイ・ディア・マイ・パートナー。生まれてきてくれてありがとう。

バナナフィッシュを見たら死ぬらしいよ。気をつけてね。

 

ああ、もう見ちゃったか。

 

 

 

鳴りやまないロックンロールの微熱から醒めない

もう長いこと、私の中でロックンロールが鳴りやまない。

正確に言えば、鳴りやまないっ。

 

神聖かまってちゃんの「ロックンロールは鳴りやまないっ」は、私の中では普遍だ。リリースからかれこれ14年もの年月が経ってしまった今もなお。

https://www.youtube.com/watch?v=NXT9rz8BErk

 

「駅前TSUTAYAさん」や「MD」はスマホと音楽ストリーミングサービスに取って代わられた。

「イヤホン」は今やBluetoothのワイヤレスイヤホン。(もちろん有線が好きな人もいるけれど)

 

時代が変わり媒体が変わっても、ロックンロールは私たちを殴りつけてくる。

おそらくロックンロールは人を選んで殴る。一生殴られない人もたぶんいる。ロックンロールに殴られた人はしばしば人生を変えられる。

 

「何がいいんだか全然わかりません」から「MD取ってもイヤホン取ってもなんでだ全然鳴りやまねえっ」へと。

 

実は同じことを草野マサムネも歌っている、と思う。

 

たとえば2010年の「恋する凡人」

「走るんだどしゃぶりの中を ロックンロールの微熱の中を」

 

たとえば2016年の「醒めない」

「まだまだ醒めないアタマん中で ロック大陸の物語を

最初ガーンとなったあのメモリーに 今も温められてる」

 

の子は「ロックンロール」を「衝撃」と呼び、草野マサムネは「微熱」「温められている」と表現した。この差はキャリアゆえなのだろうか。あるいは性格か。

 

生き方の問題かもしれない。の子はまあ、あんなんだし、草野マサムネって変態だけど成熟した感じがするもの。

 

ところでロックンロールに初めて殴られる年齢の中央値って、中2くらいな気がする。音楽の持つ力を真に感得できる精神年齢は、それくらいなんじゃないのか。

 

自分語りをするなら、私にとってのそれは中2のときに聴いたモーツァルト交響曲第25番の第1楽章だった。...それってロックか?わからないけど、音楽に頭をかち割られた初めての体験であることは間違いない。

 

音楽よ、あのときに私を選んで殴ってくれてありがとう。本当にありがとう。

だからこれからも、の子の言葉を借りるなら、

「いつまでも、いつまでも、くれよ!」

「あのときの衝撃を僕に、もっと、くれよ!」

 

今も私は微熱の中を生きている。

 

音楽は鳴りやまない。鳴りやまないっ。

 

 

2023年とGalileo Galileiと私

ずっと好きな音楽について語ってみたかった。

 

あまりに長い間この気持ちを温めすぎしまって、これ以上自分の内側に溜め込んでおくのがつらくなってきたので、書くことを試みている。

自分が好きな音楽があまりにかっこいいものだから、同じくらいかっこいい言葉で、ぐっとくる表現で、読む人を楽しませる文章を書かなくてはと思いこみすぎていたせいかもしれない。

今はただ、好きという気持ちを何も考えずに吐き出したい。あとのことはそれから考えよう。大好きな音楽を大好きと語ることにそんなに肩に力を入れる必要は、たぶんない。

 

そこでまず、Galileo Galileiである。

 

どうしたら私のこの「好き」を伝えられるだろう。

 

私にとって2022-23年は特別な年だった。

2022/10/11にGalileo Galile再始動のアナウンス

2023/01/28にYoutubeで「僕らのBUMP OF CHICKEN」のアップ

2023/03/28にYoutubeで「四匹のくじら」のアップ

2023年夏の「Bee and The Whales」ツアー

2023年冬の「冬の収穫祭」ツアー

 

「冬の収穫祭ツアー」の最終日@豊洲PITに参戦した私は、ライブ冒頭のBlue River Side Aloneが鳴り響いた瞬間、むせび泣いた。やっと「あえたね」って。

 

新生Galileoといいつつ、BBHFやwarbearの延長と思える曲作りもたくさん見受けられる。結局尾崎雄貴&和樹というコアに近づいたり離れたりしているミュージシャンたちとの集合体を、私が愛したGalileo と呼んでいいのか、正直戸惑った。今でも戸惑っている。でも、2023年リリースのアルバム「Bee and The Whales」はとても好きだ。

 

というわけで、私がGalileoに恋に落ちた瞬間について書いてみる。

 

あれは2020年。パンデミックの始まりの年。

ステイホームのおうち時間の中で、私はGalileoに出会った。正確に言えば再会した。「青い栞」をずっと以前にYouTubeのサジェストで聴いて以来、私の中の「ちょっといいね」箱の中に入れっぱなしだったから。

 

問題は「Portal」だ。どうして2020年に「Portal」を聴くことになったのか、詳しい状況は覚えていない。でも、「Portal」は私の頭と心を激しく撃ち抜いた。これが(当時)10年近く前の音楽だとはとても思えなかった。彼らの年齢を知るにつけ、なんと早熟な、と震えた。そしてなんと独特な。すぐにバンドスコアを買って熟読した。

 

「Imaginary friends」については、もうたくさんの人が語ってくれているので、今は語らない。そのうち語るけど。

 

今どうしてもひとつ語るとすれば「星を落とす」。このアルバムに共通する夢見るようなエレクトリックサウンドの上に乗る、暴力的でいてあまりにも美しい歌詞。

「さあ 星をひとつ盗んで この街に落っことして 映画みたいに燃やして 最初から始めよう」

 

星を「つかむ」ではなく「盗む」ところがいい。

 

Galileo Galilei 『星を落とす -Live at 赤坂BLITZ-』 (youtube.com)

 

「素晴らしき音楽」と「涙の落ちる音」の対比。世界に満ちる音楽とあまりにもかすな涙の音。両者を等しい重さで聞き取る語り手の耳。

 

「つかむ」ではなく「盗む」ところがいい。暴力や犯罪や老いや死についての魅力的な表現は、間違いなく尾崎雄貴の詩人としてのすぐれた資質だ。そんな歌をいくつも思い浮かべられる。

 

ウエンズデイ、くそったれども、死んでくれ、君の季節、ボニーとクライド、Freud、バナナフィッシュの浜辺と黒い虹...

 

たくさん語りたいのだけど、今日は「くそったれども」について少し語っておしまいにする。だって明日も私はたぶん生きているから。まだ自分の好きな音楽について語れる未来があるのは、よろこばしいことだ。たぶん。

 

「くそったれども」は2011年のリリース。いつ作られた曲かはわからないけど、尾崎雄貴が20歳そこそこのときの作品か。「19年楽しかったです」とあるから、わりとそのときの本当の気分を反映しているのかもしれない。

 

Galileo Galilei 『くそったれども - Live at Namba Hatch, April 14, 2012』 (youtube.com)

 

尾崎の歌詞は物語性が強いから、歌詞の内容を尾崎本人の感慨と結びつけるのはあまりにナイーブな受け取り方かもしれない。かといって、自分の中に全くない発想が歌詞として表出するとも思われない。まあ、そんな態度で歌詞を見ていきたい。

 

というか、ここまで書いてきてわかった。私は音楽より歌詞に強いこだわりがあるのだろう。いつかもう少し音楽についてもきちんと書けたらいいなと思う。

 

話は戻って。

 

私はこの歌を初めて聴いたとき、絶望の歌と受け取っていいのか、希望の歌と受け取っていいのか、しばし戸惑ったのを覚えている。

 

まず感じたのは悪意だ。

 

「くそったれくだらない 地球という星からおさらばできるのが 腹の底から うれしくてなりません」

 

そのあとに続く、子どもたちの声(と思しき)「イェーイ!」という歓声(これはアルバム音源にしか入ってない)。「腹の底から」って。そこまで言う必要ある?自死を思わせる「秒読み10秒でここから消えるから」というフレーズの繰り返し。それを「うれしくてならない」と述べる語り手。ひどく露悪的だ。

 

それでいて、「最初で最後の今日という日を 無駄にしないようにちゃんと生きよう」と言ってみたりする。

 

私は混乱した。後半部分を読めば、この歌は19歳の自分の象徴的な死と、20歳の自分の新たな誕生を寿いでいるとも解釈できる。

むしろそう捉えたい誘惑にかられる。そのほうが聴く者の胸をざわつかせないから。

 

ここからはただの私の感想になるのだけど。

 

この歌の中には「地球という星からおさらばできるのがうれしくてならない」気持ちも「今日という日を無駄にしないようにちゃんと生きよう」という気持ちも、同じくらいリアルに存在しているのだと思う。

そして、いくらかの人々はこの2つの感情を同時に抱えて生きていたりするのではないか。ちなみに私はそういう人間だ。

 

2つの感情のうち、私は「うれしくてならない」方にどうしようもなく強く心惹かれてしまう。「無駄にしないようにちゃんと生きよう」は、リスナーに対するエクスキューズにすら聞こえる。これは別に不穏な歌じゃないですよ、大丈夫安心して、というポーズ。

 

破壊も死への欲望も、創作物の中にある限り、うすっぺらい希望なんかよりよほど切実で美しい。私はそう思う。

 

それはそうと、尾崎さんってめっちゃ歌が上手くなりましたよね(2023年現在)。

2010年代前半のライブ映像の不安定な歌唱も味があって好きだけど、今の歌い方によって、楽曲のよさと尾崎さんの魅力的な声質をより新鮮に聞き取れて幸せだ。

 

今晩はこれくらいで。

 

さよなら、今日という日。